LOGIN「はあっ!」
鋭い掛け声とともに、エルキュールはハルバードを横に薙ぎ払う。
振るわれた刃は目前の獣型イブリス――魔獣に命中し、不快な音を奏でながら敵を吹き飛ばす。
この辺り一帯に広く生息する狼型は、ヴェルトモンドでも一般的な魔物の種であった。
リーベの狼よりも一回り大きい体躯。
禍々しい紫色の毛並みは逆立ち、犬歯は肥大化して赤く変色している。全身を以て醜悪の二文字を惜しみなく表現した様子は、まさに魔獣と呼ばれて忌み嫌われるも納得の姿形であった。
その上で。彼奴らを魔獣たらしめる最大の要素は、これとは別のところに存在していた。
手足の先、身体の一部分。所々がリーベとは異なり、完全に物質化していない魔素の集合体で形成されており、赤黒い光が怪しく揺らめいている。
爛々と赤い輝きを放つ魔素質、胸元にある宝石のような塊は顕著だった。エルキュールの胸元にあるそれと同じ、コアと呼ばれる魔素器官。
魔素質の中でも極めて高純度のもので形成された核のような存在である。「グ、グ……グルルルル……」
傷つけられた狼魔獣が低く唸った。
だが傷つけられた怒りとは裏腹に、エルキュールの与えた傷はまるで何事もなかったかのように回復していく。魔物に備わった驚異的な回復力は、大抵の損傷ならば回復させてしまう。
リーベのように安定した物質だけの肉体ではない、魔素質を多分に含んだ身体を持っているからこそ為せる芸当であった。「……うん、やはり昨日よりも強くなっているな」
確信のこもる呟き。
ここ数年にわたって魔獣の力はみるみる力を増していることも、その数が以前とは比べ物にならないほど増加していることも。エルキュールも話には聞いていたが、目の前の狼型はそれを何よりも裏付けするものだった。
そのうえ殺しても殺しても、湯水のように次の魔獣が湧いてくる。ここから見える景色も疾うに慣れてしまうほど。
何者かが魔獣の動きを裏から操っているのではないか。そんな不自然さを感じさせる。
「――っ!?」
ふいに背中に感じた殺気、エルキュールは思考をスキップして素早く横に飛んだ。
視界の端で元々いた場所を捉えると、二体の狼型が襲いかかっていた。
咄嗟に躱さなければどうなっていたか。
「考え事をしている場合ではなかったな」
気を取り直し、片手でハルバードを構える。
「この後には大事な用が控えている――悪いが消えてもらうぞ」
「グゥゥゥ……ガァァァァ!!」
挑発を理解するだけの知性が魔獣にあるかは議論の余地があるが、ともかく彼らは一斉にエルキュールの方へ飛びかかってきた。
エルキュールは半ば予測していたその猛攻を、後ろに跳んで回避する。
「――ダークレイピア」
攻撃を空振り隙を曝す魔獣に、エルキュールは外気に含まれる黒き魔素を使役すると闇の攻撃魔法を素早く詠唱した。
光を発する黒色の粒子が空中に集まり、やがて三つの細長い剣のような形を形成した。
黒の細剣が術者の期待に応え、空中を駆ける。
「ギャ――」
剣はそれぞれの魔獣のコアに寸分の狂いもなく突き刺さり、そのまま魔獣の体を貫通した。
魔獣たちは飛びかかった際の姿勢を保ったまま一瞬静止し、力なく悲鳴を上げる。貫かれた体はやがて重力に導かれ地にたたきつけられる。
魔獣の首元にあったコアが、エルキュールの魔法の威力によって石が砕け散るように割れ、やがて消滅した。コアの消失により回復能力を失った魔獣は、二度と起き上がることはなかった。
この三体を含め、討伐したのはこれで十体目。
これくらい狩れば、今日のところは魔獣が街に入ってくる心配もない。後の事は街に駐留している王国騎士団に任せれば、全て勝手に収まるだろう。
ヌールに隠れ住んでいるエルキュールの、街に対するせめてもの貢献。
二年もの間、ここで魔獣を狩り続けた最大の理由だった。「……違うか。貢献なんかじゃない。これは、単なる欺瞞だ」
朝焼けに涼風が靡く草原の中、エルキュールの存在だけが黒く際立っている。
欺瞞、今のエルキュールの生活をこれほど的確に表す言葉もない。
眠りを知らないエルキュールは、夜が更けた街を照らす月を、いつも取り残されたような心地で自室の窓から眺めていた。
ヒトに近づこうと、自分と家族が住むこの街を守ろうと、殺戮に手を染めてきたが。同種である魔獣を殺すことにはやはり躊躇いがあった。
そうすることでリーベの世界の住人だと自らを騙すことに、疑問を覚えない日はなかった。
しかし。
「今日は……今日だけは、せめて明るい気持ちで過ごしてみよう」
空を見上げれば、狩りを始めたときよりも高くなった日がエルキュールを照らしている。
約束の朝食時が近づいていた。エルキュールは踵を返してヌールの街へと歩き出す。
その背に射す温かな光に、燻ぶる苦心が浄化されるような錯覚を覚えながら。 ◇◆◇王国内では比較的自然が多いヌールの街中をエルキュールは足早に歩く。
いつもなら魔獣を狩る以外に予定もないので、図書館で魔法書や学術書を読み漁ったり武器の手入れをしたり、なるべく目立たないように過ごしていたが。
「習慣に身を任せて道を違えないようにしないと」
エルキュールの住む家は街の外れに建てられており、こことは正反対に位置している。
朝食まで時間はあるものの、余裕をもって行動するに越したことはない。
それにもし油断して時間に遅れることがあれば、少し面倒なことになるとエルキュールは感じていた。母であるリゼットはいざ知らず、妹のアヤは遅れたことでひょっとしたら機嫌が悪くなってしまうかもしれない。
幼い頃のアヤは素直な性格であり、人情に疎いエルキュールからしても彼女のことはなんとなく理解できていた。
ところが年月が過ぎて成長するにつれ、アヤの心情を理解することが次第に難しくなっていった。
「もう十六だったか……」
その頃のヒトは、思春期と呼ばれる色々と難しい時期だと、書籍である程度は学んでいた。けれども最近はどうにも上手くいかない。
「……女性の心情の機微はやはり難しいが、これ以上溝を深めることはしたくないな」
たとえそれを除いたとしても、時間に遅れるのは一般常識的にあまり良くない。
「今度、年頃の女性が好みそうなプレゼントについて調べてみよう」と思考を締めくくり、エルキュールは先を急ごうとした。
「ん……?」
その歩みはすぐに中断させられた。
道を行きヌール広場に近づくにつれて、いつもに比べてやけに人の往来が多いことに気付いたのだ。
日ごろ周囲の目には注意を払っている彼は、周囲の目にとても敏感であった。落ち着いて気配を消し、観察する。
人々はどうやらエルキュールが向かっているのと同じ方角、即ちヌール広場方面に流れているようだった。「もしかして、魔動鏡に何か映し出されているのか……?」
そうだとすると、エルキュールとて様子を見に行かざるを得ない。
人々の流れに身を紛れさせ広場にたどり着く。そこには予想通りの光景が広がっていた。三叉路に面した空間にあるヌール広場は、周縁が花壇や小さな木々によって彩られている。
中に備え付けられた木製の長椅子は、広場の中心を囲むように整然と並び 人々が次から次へと腰をおろしていた。そしてその諸々よりもさらに内。
中心部にはエルキュールの部屋にある姿見など比にならないくらいの、巨大な鏡が圧倒的な存在感を伴い鎮座している。青みがかかった鏡面と魔法術式が刻まれた紫紺の枠。ヌール広場の最大の特徴でもある魔動鏡だ。
オルレーヌ国内の広場にはほとんど魔動鏡は存在するが、ここまで大きさは少々珍しい。
「ふわあぁ……こんな時間に何が映るってんだぁ? まだ朝の報道の時間には早いはずだろ?」
「さあ? 緊急の知らせかもしれんな」
中年の男二人組が、そんな会話を繰り広げながらエルキュールのそばを通り過ぎる。男たちはそのまま空いている椅子に座った。
魔動鏡は文字通り魔法による動く鏡であり、市民に対しその日の出来事などの情報を伝える機能を持つ。
音と映像を伝達する魔動機械の一種で、光の上級魔法・ビジョンが付与されているためとても貴重である。
故に公共施設などの限られた場所にしかないが、それでも極めて便利な代物には違いない。「……少しだけ確認してみるか」
先ほどの男も言っていた通り、定時ではないこの時間に映像が映されるのは稀なことだった。
空いている後方の椅子に座り、鏡面に視線を向ける。 すると鏡面は光りだし、次第に渦のような模様が現れる。ビジョンが発動する前兆だ。「――六霊暦一七〇八年、セレの月、三日。オルレーヌ放送が最新の魔獣情報をお伝えします。本日未明、ヌール方面とガレア方面において魔獣が大量発生したとの情報がありました。当該地域にお住まいの方は十分に警戒を……」
報道員が原稿を読む姿が魔動鏡を通じて映される。
緊急の魔獣情報のようだ。先ほども一端に触れたが、魔法による防壁と騎士によって守られた街を少しでも離れれば、そこは魔物が跋扈する危険な地だ。
最近では一般人の移動に制限が設けられ、特別な魔除けが施された馬車や護衛の者がない限り、自由に街の外へ出ることは認められない。
魔獣は数が増えすぎると、獲物を求めて凶暴さが増し、防壁を突破して街に侵入することもある。
故に魔獣情報は、今日のヴェルトモンドに暮らす人間にとって不可欠の情報であった。だが。
「なーんだ、魔獣のお知らせだったみたいね。大したことなかったじゃん」
「ホントになー……ったく、朝っぱらから広場に来たのによー」
エルキュールから数人分離れた席から、若い男女二人組の会話が聞こえてくる。
その声はいかにも拍子抜けした、という感情を雄弁に語っていた。「魔獣に警戒って言ってもさ、最近なら街にまで来ることもないし……」
「騎士サマと防壁が守ってくれてるもんなぁ、俺達には縁のない話だぜ……つーか、この前王都では魔人が出たんだろ? そっちの方がヤバくね?」
青年が立ちあがり、女性を連れて広場を去っていく。
エルキュールはその様子をちらりと見た後、魔動鏡に向き直った。 この間も映像はまだ続いていた。「王都ミクシリアの騎士団本部や、対魔物専門機関・デュランダルによれば、前回の王都の件に引き続き、この件もイブリス至上主義団体・アマルティアが関連している可能性が高いとのことです」
アマルティア。
その単語を耳にしたエルキュールの、全身の魔素質が疼く。
その団体の存在が確認されたのは、いまから約十年前のこと。
魔物の活性化と時期を同じくして現れた、イブリス至上主義を謳う団体である。名前の他はほとんど素性は知られていないが、辛うじて判明しているのは、強力な魔人で構成され、魔獣を操る力をもったリーベ全体を脅かす敵であるということ。
今朝、魔獣と戦闘していたときにも、エルキュールの意識にはその存在がちらついていた。
かつて住んでいた土地を追われ、家族ともども放浪し、このヌールに移住するまでの間。
魔獣を操るというアマルティアに関する噂は、エルキュールを頻りに不安にさせた。もし昨今の魔獣の増加にアマルティアが関与していたら。
自分と同じ存在がこの世界に害をなしているとしたら。 そう思うたびに、エルキュールはいつもある種の罪悪感を覚えた。「……だが先ほど戦った魔獣、それ自体には特に不審なことはなかった」
湧きたつ負の感情から逃れようと、エルキュールはあのときに問題が起こっていなかったかを確かめる。
しかし思い返してみても、アマルティアの介入の形跡に思い当たる節はなかった。
そもそもアマルティアに関しての知識は、ここの住民のものに少し毛が生えた程度にしか持ち合わせていなかった。
だからここでいくら頭を回転させたとしても答えが見つかることはないのだが。
「あの名前を聞いて、じっとしてはいられない」
不安要素はなるべく排除しておきたい。朝食を済ませたら改めて調査してみようと思い、エルキュールは腰を上げた。
思考の旅を終えてあたりを見渡せば、あれほどいた人々はほとんど散り散りに去っていた。
あの若い男女のように、魔動鏡の魔獣情報には早々に興味をなくしたようだった。今この世界が危機に瀕していること。
それはあくまでも騎士や報道でもあったデュランダルが対処すればよいだけのことで、一般の市民にはあまり馴染みのないことだとでもいうのだろうか。街の外に出ない、もしくは魔獣の脅威を直に知らない者からすれば、この平和は当たり前のように存在しているものに見えるのだろうか。
しかし実際、この街の平穏は何も自然にもたらされているわけではない。
その実現には騎士の活躍や、エルキュールの力も僅かながらに関わっている。今は安定しているが、それが後にも続くと限らないのだ。
怯えずに毎日暮らせているなら何よりであるが、もう少し魔獣情報に対して気を配ったほうがいいのではと、魔人である立場ながら思ってしまう。
「全く、なんて呑気な――」
「やれやれ、随分と呑気な連中だな」
エルキュールが人々のそんな様子を見て柄にもなく呆れていると。
後ろから軽い声が発せられた。 偶然とは思えないその言葉に思わず振り返ってしまう。他人との関りを極限まで減らしているエルキュールは、その自身の甘さを呪ったが、遅い。
一人の青年がエルキュールの目をしかと見据えて笑っていた。
リーベという生物が生まれる遥か前の古の時代のこと。 高濃度の魔素で満たされたヴェルトモンドの大地は、精霊と呼ばれる生命が住まう園であった。 火の精霊、水の精霊、風の精霊―― 世界の理たる六属性の魔素と対応する六属性の精霊たちは、思い思いのままにヴェルトモンドを放浪し、互いが干渉することを嫌っていた。 内に秘める魔素が原因なのか、異なる属性を持つ精霊たちが遭遇すると常に争いが起こる。 争いが起これば、常に力の強いものが勝ち、弱いものが淘汰されるのは、群れることを厭う精霊の間では避けられないものだった。 勝った側は負けた側の魔素を取り込み、各精霊の力の均衡というのは次第に崩れていった。 力を持つ者にとって、自らの害となるものを力で排除することは非常に単純かつ効果的であり、闘争に慣れた精霊たちの力はやがて、ヴェルトモンド全土の魔素を喰らい尽くさんとしていた。 だが、類まれなる力を有した精霊であっても、未曽有の危機に瀕したヴェルトモンドを、苦難に喘ぐ弱き精霊たちを救おうとするものたちがいた。 後の時代に多大なる影響を及ぼした六体の精霊――ゼルカン、トゥルリム、セレ、ガレウス、ルシエル、そしてベルムント。 属性が異なるにも関わらず、六体の精霊は互いに協力することを惜しまず、そんな彼らの姿を目の当たりにした他の精霊たちの間にも、ある共通の意志が芽生えようとしていた。 それは抗争の意志であった。強大な敵を打破するために力を結集しようという意志であった。「――そして力を合わせた精霊たちはどうにか悪い精霊を倒し、平和になったヴェルトモンドでは、六体の大精霊の加護の下今度は仲良く暮らしましたとさ。めでたし、めでたし~」「あ、最後の方なんかテキトーにしめただろー!」 それまで部屋を満たしていた少女の朗読の声が止むや否や、向かいのベッドに腰かけていた少年の鋭い指摘が飛ぶ。 不満の表情を浮かべる少年に思わず少女は苦笑する。確かに最後の部分は意図的に省略して読んだが、何も朗読に飽きたとか、いいかげんにあしらったとか、決してそういった理由ではなかった。「そうだよジェナおねえちゃん、だいせいれいたちはこの後どうなるのー? あたし、気になるよぉ……」 少女――ジェナの視線の先では、少年の傍らに座る幼女が彼の言葉に同意して物語の続きをねだるが、その半開きの口からは
オルレーヌを守護する王国騎士団、その騎士たちを統率するロベール・オスマンはその立場の関係上、またはその実直さ故に非常に悩みの多い人物である。 例えば、魔物の勢力が強まっているため騎士団に所属する騎士の一人一人の練度を今一度見つめ直さねばならないことについて。 例えば、いつまでも身を固める素振りを見せない愛娘のことや、先日息子夫婦の間に生まれた孫への贈り物について。 悩みの種類やその重要度は様々であるが、目下のところロベールの頭を悩ませているのはそれとは別の事であった。「ふう――」 ロベールのために設えられた執務室内にて、彼は重苦しく息を吐いた。「オスマン騎士団長! 今お時間よろしいでしょうか!?」「む、来たか……入りなさい」 そんな重苦しい空気を払拭するかのように、部屋の入り口から慌ただしい声がかけられた。その声を聞くや否や、それまでの弱気だった顔色はたちまち霧消し、ロベールは騎士団長に相応しい超然とした面持ちで部下を促した。 室内には似つかわしくない甲冑の音を響かせながら、部下の男はロベールの席まで小走りでやってきた。「――ヌールの件だな?」「え、ええ……あちらの騎士隊長殿から連絡がありまして。……急ぎ、こちらの資料に今回の事件の概要を纏めさせていただきました」「ああ、感謝する」 ロベールは短く謝意を述べると、部下である騎士から恭しく手渡された資料に目を通し始める。 ――三方向から同時に行われた襲撃、広範囲にわたる街の損壊の程度、安否確認が取れた住人の割合は過去の事例と比較しても圧倒的に少ない。 資料に記されている内容は、どれを見ても今回の事件の凄惨さを物語っていた。「……だが、やはり想定より被害が大きすぎるな」 資料に通していた目線を外し、ロベールはその事実を確かめるように呟いた。 かつての十五年前の事件を皮切りに、ヴェルトモンド各地では魔獣による襲撃が激化しているのは確か
「――ったく、やっぱ何か隠していたみてえだな」 天を見上げながらグレンは恨めしげに呟く。横を見れば、眠りにつく前までそこにいたはずのエルキュールの姿がなかった。 もちろん通常なら大したことではない。用を足しにいったか、眠れないから外の空気を吸いにいったか、今この場にいない理由は幾つか考えられる。 しかし、エルキュールが出ていった理由はそんな気軽なものではないとグレンは半ば確信していた。 彼の目、彼の声、彼の態度は、あの時ヌール広場で別れたときとは明らかに異なっていた。その表情は失意や悔恨で塗れていた。明らかに異常な状態であったのだ。あのような人間が正常に行動できるとは到底思えない、得てして過ちを犯すものだ。 だからこそ、彼の行動には注意を払っていたつもりだったのだが、流石に疲れが溜まっていたようだ。 己の不覚に舌打ちしながらゆっくりと身体を起こし、エルキュールに掛けられたであろう毛布を脱ぎ去る。 彼はグレンが眠りにつくのを待っていたようだが、これに関しては甘いと言わざるを得ない。結果的にグレンを起こしてしまったのだから。 だが今はその甘さに感謝する必要があるだろう。おかげで、エルキュールの状態が想像よりも遥かに悪かったことに改めて気づくことができた。 寝ている人々を起こさないように静かに立ち上がる。 何も言わずに出ていったということは、きっとエルキュールはグレンが追ってくることなど望んでいない。加えて、彼と出会って僅か数時間にして立ち入っていいものかという逡巡もある。本当はこれ以上関わるのは間違っているのかもしれない。 頭では分かっている。ならば何故グレンは今立ち上がったのか。過去に捨て去った博愛の信条でも思い出したのだろうか。いかなるものが相手であっても、嘆きに喘ぐ人を見捨てることを認めない。甘く、愚かで、馬鹿げたかつての信条を。 その博愛が必ずしも世のため人のためになるとは限らない。それどころか、他者からの裏切りという形で自身に牙を向くことすらあることを、グレンは嫌というほど知っていた。 それでも、今回に限ってはこの行いをやめるつもりはなかった。街をただ守りたいから魔獣と戦うと言った彼の純粋な言葉を、家族について語っていた時のぎこちない微笑みを思うと、この現状は何とも悲しく、救いがないように感じられた。それだけであの優しくも哀れな男に
言葉を選ぶようにゆっくりと、エルキュールは自身の体験を差し支えないように語り始める。 ザラームのほかにも、フロンやアーウェ、魔人と化したアランの存在。自身の事と「アマルティアのもう一つの目的」には触れずに、事実を連ねていく。「君には無理をするなと言われたんだが、結局捕まってしまった。だけど、奴らは俺に攻撃を加える前に何やら通信機のようなもので会話をし、そのまま退却していったんだ」「おいおい……結局無茶してんじゃねえか……!」 グレンから悲鳴にも等しい声が上がる。申し訳ないという感情がエルキュールの心を掠めるが、彼の鉄仮面を割るには至らなかった。 エルキュールは相好を崩さず、淡々と続ける。「彼らが去る前に、王都がどうとか言っていたな。情報といえばそれくらいしかないな」 あの時の出来事はエルキュールにとってはあまりに刺激的で、正直記憶も曖昧であった。 それでも記憶の糸を辿り、建設的な会話をするように努めた。「王都ですか……そちらの方でも彼奴らが暗躍していた可能性がありますな」「ああ。あいつらはここの魔動鏡を乗っ取っていやがったが、その時のザラームの言葉は国全体に向けたようなものだった。そして、全国にその映像を送信するのに最も適したものは、王都・ミクシリアにあるものに違いねえ」「理論的にはそうですな。先日も王都周辺で魔人が確認されたとのことです。それは既に討伐されたそうですが、その騒ぎに乗じて潜入したのでしょうか」 王都の魔人騒ぎの件は、今朝の魔動鏡の放送の際に誰かが触れていた気がする。その後に特に異常は見られなかったという話だったが、その時からこの襲撃が仕組まれていたというのか。 アマルティアの執念を今一度思い知らされる。「ふむ、そのことも合わせて騎士団本部に申す必要がありそうですね」「こうなったらオレも王都の方に顔を出す必要がありそうだな……あまり気は進まねえが」 グレンもニコラスも、それぞれが自身の今後の
家から出て、とりあえずはこの街を出ようと考えていたエルキュールだったが、街が存外静かなことに気づきその足を止めた。 先ほどまでは辺りに魔獣が闊歩し炎に包まれていたというのに、今となっては魔獣の姿は忽然と消え、燃え盛っていた炎の勢いも弱まっていた。 それでも、ここまで倒壊した家屋が多いと復旧に時間はかかるだろう。すぐに以前のような生活に戻ることは見込めない。「……変に冷静な自分が嫌になるな」 どこか他人事のように荒れ果てた街を分析していたエルキュールだったが、不意にその眉を歪めた。 彼も当事者であることに変わりはないはずなのだが、その態度は不思議なほど落ち着いたものであった。 そんな光景に慣れてしまうくらい、長い時が流れたというのもあるだろう。 しかし、そんな量的な問題では到底片付けられないものが、エルキュールの心に重く沈んでいた。 アマルティアとの邂逅、それに伴う自己認識の変容。 世界と自分との間の壁が一際厚くなったような感覚をエルキュールは感じていた。「とりあえずの脅威は去ったのか……?」 せめて生存者が無事に避難できたのかだけは、この街を発つ前に確認しておくべきだろう。 この地に災害を招いた遠因として、それくらいは行って然るべきだ。「郊外に出てみれば何か分かるかもしれないな」 もう、あらかたの救助は済んでいるはずだ。そう判断し、エルキュールは歩みを進める。 ――目指すはアルトニー方面。ニースの方には足が向くはずもなかった。 ヌールには街の外に出る三つの門がある。 一つは、今朝アヤとリゼットを見送ったニースへと続く東門。 一つは、グレンと共に魔獣を狩りに言った際に通った北門。 そして、最後がアルトニー方面に造られた西門。こちらを通るのはおよそ三年ぶり、初めてヌールの街に来た時以来になる。 北ヌール平原に魔獣を狩りに行くとき以外は、この街から外に
『この世界にお前らバケモノが生きる場所なんざねえんだよ!!』 ――これは誰の言葉だっただろうか? あの頃のことは朧気ながらにしか覚えていないらしく、生憎とこの言葉の主の顔は思い出せない。 記憶が蘇るたびに心を抉られてきたというのに、不思議な感覚だな。 思えば、これが始まりだったか。 この世界に俺の居場所など存在しない。その事件を経てからというもの、心の片隅ではずっとそう思っていたんだ。 それでもこの世界で何とか生きてこれたのは、間違いなく母さんとアヤのおかげだろう。 当時、半ば廃人だった俺に教学を、道徳を、愛情を与えてくれた。この世界で生きる術を教えてくれた。 この恩は、きっと生涯忘れない。 母さんもそうだが、まだ小さかったアヤに苦労を掛けさせてしまったことは、謝罪しないといけないな。 ヌールに至るまで家もなく、魔物の脅威に怯えながら各地を転々としたことは、臆病な性格だったアヤにはさぞかし辛かっただろう。 ――そう、辛かったはずだ。辛かったはずなのに、俺が謝るたび「いつかお兄ちゃんを守れるくらい、強くなるから」と言って、笑いかけてくれたことは忘れられない。 その言葉通り、本当に強くなったのだから、本当に凄いと思う。 名の知れた魔法学校に入学したこと、臆病な性格を直すために人と話す練習をしてきたこと、数えだしたらきりがない。 もし、それらのことに俺の存在が関わっていたとしたら、少しは共に過ごした甲斐があったのだろうか。――いや、流石に厚かましすぎるな。 俺もそんな君たちに認められるために、共にいることを許されるために、必死だったな。 その中でも、魔人としての力を抑えることは容易ではなかった。 イブリスは外界にある魔素を吸収することで自らの糧とし、その際にコアが発光するのが特徴だ。 もちろんリーベである人間の世界で表立って魔素の吸収はできない。基本は人目のつかない夜に、場合によっては何日も行えないときもあっ